事の始まりは、11月に測定した血糖値
父→6.2
母→6.6
で、ちょっと母の方が高かったらしい。
その時は「甘いもの食べすぎだね~。気をつけようね~」で済んでしまったらしい。
この時、すぐに検査していれば・・・と、父は悔やんでいた。
12月上旬に、父と母で沖縄・宮古島へ旅行
2人とも、国内外問わず旅行が好きだったから2人でよく旅行に行っていた。
その時は、これが2人でできる最後の旅行とは思ってなかっただろう。
母は、たまに腰の痛みを訴えていたらしい。
(腰の痛みは、膵臓がんの症状です)
母は痛みを我慢してしまう人なので、言わなかったらしい。
「あの時、訴えてくれてれば・・・」と父は言っていた。
この旅行の時はまだ食欲があった。
旅行から帰ってきて体調を崩した母
沖縄から北関東に帰ってきて、温度差で体調を崩した・・・と、父は思っていたらしい。
しかし、何日しても治らず咳はひどくなり、腰も変わらず痛いので
病院で見てもらった。
そしたら、「すぐに総合病院に行ってくれ」と言われて、総合病院に行って即入院。
父から連絡がきたのが「12月28日」
この時は「肺炎を起こしていて、膵臓がんの疑いもある」と言ってた。
母は、年末年始は入院していた
12月28日~1月8日まで、入院していた。
最後の年末年始は、病院で過ごしたんだな・・・(´;ω;`)
母が入院してしまって、父は3日間あまり何も食べられなかったらしい。
そして父は医師から母の余命が2~3か月ということを告げられ、「余生は家で過ごした方がいい」と言われ、1月8日に退院したのです。
1月10日~11日に、子供(孫)を連れて会いに行った
まだ子供が冬休み中ということもあり、子供を連れて母に会いに行った。
結果的に、これがよかった。
まだ、血色がよくて多少は動ける時だったから。

まだこの時は、自分で歩けた。
歩行器を使って、自宅トイレまで歩けたんだ。

昼夜問わず、2時間おきに父が歩行器の手伝いをしながら、母をトイレに連れてっていた。
大変そうだと思ったけど、父は自分で母のお世話ができて嬉しかったみたい。
そしてこの時に、相続の相談とかを父としていたらしく
「まだ早すぎない?」と思っていたけど、早すぎないなんてことはなかった。
早く決めておくべきなんだ。こういうことは。
1月18日に、体調が急変
体に黄疸(おうだん)が出てきて、やせ細り
酸素がもっと必要になっていた。

酸素も、通常は「鼻の管3.00」だけだったのが
「鼻の管4.00」+「口を覆うマスク5.00」で、酸素最大値になっていた。

・・・にも関わらず、パルスオキシメーターの数値は78しかなかった。
血圧も、上70しかなかった・・・
そして、もう自分で歩けなくなっていた。
ベッド横に、椅子型簡易トイレがあった。
口もよく乾くらしく、よく氷をなめて写真の薬を使っていた。
目が虚ろだった。


1月28日に父から連絡があり、「今週が山だ」と言われた。
1月31日~2月1日に、実家に帰った。
これが、生きている母との最後の対面だった。
もう末期は、言っていることが分からなかった。
そして、母の乗っていた車がもうなかった。
聞くと、処分してしまったらしい。
もう母が乗れないのは分かるし、車の維持費がかかるのは分かるけど
何だか寂しかった・・・
2月4日は、父が話しかけても反応がなかったらしい。
2月5日 13時半過ぎ
仕事中、職場に父から電話が入った。
「母が亡くなった・・・」と。
嫌な予感は当たった。
次の日、急いで実家に帰った。
母は冷たくなっていた・・・あの温もりは、もうない(´;ω;`)

退院してから、1か月もなかった。
母の誕生日(3月14日)までくらいは生きられると思っていた。
死去間際に何があったのか
まず、具合が悪いので次男(弟)に来てもらって、夜中3時半~朝8時くらいまで介護してもらったみたい。
内股は、内出血がひどかったらしい。
その後、長男(弟)が来てくれて、父と昼食をとった後に母が急変したらしい。
急に、舌の上に血のかたまりができて、それを母が取ろうとして苦しそうだったので
看護師さんを呼んでる間に息を引き取った・・・と(´;ω;`)
膵臓がんの最期は苦しまないと聞いてたけど、最後の最後に苦しませてしまったことに
父はとても悔いていた。
享年65歳。
60代は、こんなにがんの進行が早いのか・・・と思った。
火葬
火葬場で焼かれる間際、いつも陽気な弟が泣いていた。
形がなくなっちゃうもんね・・・
私も泣いた。
骨は、病気の影響かな。
脆くなっていて、頭蓋骨の形が残っていなかった。
母との思い出を見る父
葬式が落ち着いて、父はyoutubeの旅行系チャンネルで
母と行った、数々の観光地や空港の映像を見ている。
特に、最後に行った
沖縄・宮古島の下地島空港。
「GoToトラベルで、安く行けた」って、母が喜んでいたな。
父が、母との思い出をまた見れて、旅行系youtuberさん、ありがとうございます。
父の想い、母の願い
父は、「こんなことになってしまったけど、自宅で世話できて看取れてよかった」と言っていた。
コロナ渦において、病院に入院してると面会も叶わず、状態も分からないまま死去・・・ということが多いそうだ。
自宅療養を勧めたのは、医師だったらしい。
母の願いは、「みんな日常生活を送ること」
ふと泣いてしまうこともあるだろうけど、私は母の遺言通りに日常生活を送ることに努めたい。
母が使っていた椅子型簡易トイレは買い取り型だったらしく
父は「自分がそのうち使うよ」と言って、笑っていた。
今思うのは
母に、結婚式と孫の顔を見せられてよかったと思う。
母は、自分の心の中で生きている。
ゆずジャム
葬儀が終わって落ち着いて、実家冷蔵庫に母の手作りゆずジャムがあったから食べた。
美味しかった。
手作りの物を残しておいてくれて、ありがとう・・・
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